近藤麻理恵さんの、ときめく片付けの魔法を読んで。

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 に出掛けるとき、人は何を想うのだろうか。未知なる場所へ足を運び、食べたことのない食材を口にして、その土地の歴史や文化に触れ合う。新しい発見が待っているかもしれないし、今までの自分の足跡を振り返ったりできるかもしれない。

 遠出するときには、着たいものや趣味で用いる道具を選び、スーツケースに想像力や心が赴くままにものを詰めるだろう。近くに出かける時も、そう。最低限のものでも、お出かけをより快適なものにするために支度する。

 そんなあなたの持ち物は生身のあなたを最も側で手助けしてくれる。ずっと側で、旅のお供として。そう、持ち物はあなたの役に立ちたいと思っている。

 こだわり抜いた、楽しみが詰まった持ち物を横に添えて、旅路を堪能する。これには何にも変えがたいワクワクがあり、心が踊るのを感じるのではなかろうか。旅路に出かける朝は、起きることが楽しみで仕方がない、そんな経験を幾度となくしたことはないだろうか。

 さあふと、あなたの身の回りのものを見渡してほしい。出先なら、今自分が着ている服、スマホのカバーケース、また持ち歩いているバッグ。家にいるなら、今住んでいる場所、大切な人からもらったTシャツ、お気に入りのキーホルダーや思い出の詰まったペンケース。

 これらと全ての持ち物とあなたの間には、何かしらの形で交わるこれまでの物語や逸話があるのではないか。そう、今まさに紛れもなくそのものがあるという事実は、今までの物語だったり、これまでのあなたの足跡を映し出している。

 ものは、あなたと一緒に生きている。部屋を整えて、時めくものと向き合い、丁寧に手入れをしてあげよう。ものは多ければ多いほど、一つ一つのものと向き合う時間は減ってしまう。今そこにあるものがある以上、それらが埃をかぶらないように手入れをするということは、自分に大切に向き合うことと同じだ。

 そしてこの瞬間にも、持ち物の一つ一つはあなたの役に立ちたいと思っていることは変わらない。あなたがボロボロになれているときも、幸せに眠れるときも、いつ何時だってものはあなたの側にいる。

 人は流動的なもので、あなたの趣味嗜好や人間関係は、あなた自身の変化や外の環境の変化(仕事や住む場所など)で常に変わりゆくものである。これに応じて持ち物も変わるし、ときめくものも変わって当然だ。時たまに振り返って自分を見つめ直すように、定期的に持ち物に向き合ってはその様子を伺い、手入れをしてあげよう。

 形から入ると言葉があるように、気分を一新するために、新しいものを買うこともある。同じように、すでに必要無くなったものや心のときめかないものがあれば、それを手放すこともできる。

 ものを手放したとき、心に余白が生まれ、開放感や寂寥感が募るはずだ。心地よかったり、心が軽くなることもあれば、何か足りないと感じたり落ち着かない、物惜しいと思うこともある。どちらにせよ、その気持ちを気づき、観察することには意味がある。なぜならその心の機微を認知できること、認知していることは、心でもって行動するために大切な過程であるから。

 余白が生まれたら、そこから何ができるか、先を考えることができる。そのまま余白に浸ることが心地良いのであれば余白を残したままにしても良いし、なにか新しいことにうつっても良い。

 街の中に溢れるほどある中で選び抜かれ手元に残った、表現となる洋服。電気エネルギーを瞬時に温水にするケトル。プロの音楽家に演奏してもらう代わりに、いつでもどこでも耳元へ音楽を届けるスマートフォン。尽きることなくあなたの興味をそそる動画配信サービス。これらは全て、あなたの生活を豊かにする。

 私たちは、高度に発達した技術が大衆化した文明に生きている。より安く、早く、便利なものやサービスが手に入る時代の中で、ものやサービスは日常に溢れかえっている。ものやサービスに囲まれる豊さとも言っても良く、昔よりもはるかに豊かになった。

 その反面で、心の余白は消されつつもある。まちを埋める陳列した商品や電車で何気なく目にとまる広告から、ポケットに潜む無限に洗練された電脳世界の誘惑まで。身の回りのもの全てが、常に僕たちを魅惑して離さない。それでは果たして、心の余白は、ものやサービスに囲まれる豊かさに消しさられてしまうのだろうか?それとも、物やサービスに囲まれる豊かさと共存するのだろうか?

 ものを生み出す動機は、より便利で、より暮らしやすく、より豊かな生活を送ることにあった。そんなとき心は先にあり、ものは後にあった。きっとそのころからすでに、ものに心を寄せたり奪われることもあったのだろう。ものと人々は付かず離れずな生活を送ってきたに違いない。最初の文明から、ものと生身の人を合わせて文明人をみるようになったと言ってもいいだろう。

 ものを手足のように動かし、操ることができるとき、生身の人間1人は正味で幅広く、多くをこなせるようになる。本来、ものを使うことで人は進化した。石や毛皮を使うころからものを積み上げては進化を続け、いつしか人間は自身の労働を置き換えることのできるものすらを生み出した。計算機の黎明期は終わり、その力が個人一人一人の手に分散された世の中では今、私たちは1人1人がサイボーグとしてすら生きている。

 ものに大切に向き合い、心で動くこと覚えてから、昔よりも余白と、ものやサービスが囲む豊かさが共存するところをもっと見つけられるようになったと思う。それは行き過ぎたミニマリズムでも、常に消費購買欲に駆られるような状態でもない。その塩梅は誰かが答えを教えてくれるものでもなく、長い目でみて自分1人で見つけるものであると思う。

 昔から、心を掴むこと、あるいは奪うことは誰かの利益になった。今は昔よりも、その利益を追いかける競争力は一方方向に加速し続けることをやめない。今、スマートフォンをはじめとしたIoTは少しずつ人の心を知るようになっている。魔法の一部となったスマートフォンやサービスはむしろ、すでにあなたの無意識にまで入り込み、あなたの心を奪う。

 世の中がそう変わっていくからこそ、この塩梅は自分1人で見つけるものなんだと認知することはかけがえのない心構えを生むと思う。世の中がそう変わっていくからこそ、自分の心に敏感に気づき、自らで心の変化を認知したいと思う。自分の心がなんというのか、心に耳を傾ける癖をつけてたいと思う。そして心でもって、持ち物に向き合う癖をつけたいと思う。

 なぜなら、「もの」以前に「心」こそ、あなたのものだから。その機微に耳を傾ける癖をつけなければ、余白は、心は、あっというまに埋め尽くされてしまうだろう。忙しいとは、心が無くなると書くのだから。ものと大切に向き合うことは、その大きな道しるべになるに違いない。