東京には色がない。冷凍都市と、名付けた人の声を聞いたことがある。黒や灰、白に囲まれている、そう、冷たく、色がないことに気づくのだ。目の前や足下をみてみれば、自分もその色気のなさに紛れているような気がしなくもない。近頃、レンズ越しの僕の日常は、黒や灰、白に囲まれていた。

 しかし少し距離をとってみて気づいた。地図を少し高いところからみてみれば、どれだけの緑や青がこの町を囲んでいるかに。ひとまず夕焼け雲を見上げれば、どれだけ空が暖色に包まれているのかに。

 そして彩色豊かな食文化。現物、原材料は小さな形に姿を変えて、遥か向こうの島から旅をしてきた。ここは美食の街でもある。

 訪れる四季は、これらの源になっているような気がする。街の至るところに色を散りばめ、緑を養っては色付け、人を纏う丈や色を変える。季節が呼吸するとき、街と人は一緒に呼吸するのだ。

 多様性があり、賑やかで、心躍るようなイベントの数々を作り出す。十人十色の息吹は、吹き止むことを知らない。

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 さあ、夜がきた。月が朧げに雲に隠れ、赤く光る高層ビルの先端が脈を打つ。昼夜と時が変わった時、至る所に散りばめられた色は静かに姿を消す。押し返す、黒い人の波。

 ひっそりとした静けさと、景色が変わる有り様は四季や太陽にだけ支えられているのではない。集団叡智と歴史の最新技術の集まったサイバーコネクティブは、日々の業務に勤しんでいる。1千万を超える人による労力の結晶が、今ある東京の姿を映し出すのだ。

 乱立する大きな建物に宿る光は何でできている?あかりを灯している源は、何なのか?はたして遠くに見える綺麗な光は、宿で一息をつく柔らかな光なのか。はたまた、明朝まで終わりのこないため息に混じった、途方もない苦労の光か。

 目の前の静けさはその、数えきれない人の動きによって生み出された見せかけの静けさなのかもしれない。つまり平衡状態である。水の入ったグラスは、液相の表面で小さな水分子が表面から飛び出しては気体に変わり、気体の水分子は液体へと変わる。それでいて、僕たちには液体は静かに止まって見える、そうこれも、分子の状態が平衡しているからだ。

 一人一人は、この分子のように動き回り、時に激しく摩耗し尽くす。そして一人が一度脚を止めても、全体の様子は変わるわけではない。

 しかしもしも一人ではなく多くが脚を止めても、全体の平衡は変わらないのだろうか。いやきっと変わるに違いないのだ、そう今年、パンデミックを経験した街はその一片を垣間見たことを、僕たちはよく知ってる。

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 僕はそんな中で、ひとと暮らしが重なる場所にきた。少し前までしていた1人暮らしは、今の僕には向かなかった。ここでは、もはや今では古典的となってしまった付き合いー隣人との交友ーがある。一つ屋根の下、同じ窯の飯を食う。暮らしは人との中にある。人がいてはじめて、暮らしは何倍にもその色の濃さを増すことに気付く。

 小さな画面に目を向ける人の有り様は、もう当たり前の光景になった。革命を迎えた世界に住む僕たちの新しい日常。ビッグバンから今までの137億年の歴史を1年間に収めたら、この暮らしは12月31日23時59分59.9秒後の世界でしかないのにもかかわらず。

 御時世的に、家で画面を見つめ仕事に励む人もよく見る。魔法の世界に住む代償に、いつのまにか画面の中にある世界を見過ぎるようになった。自国の国政よりも気づけば海の向こうで分断の進む有り様を、万人がこぞってしきりに注目する世の中になった。

 しかし僕は越してきて、画面の世界よりも、ありのままの目の前の日常に目を向けることが増えたような気がする。

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 ある夜、住人と星を見ることになった。魔法使いの1人が言ったのだ、今夜は獅子座流星が見えると。寒い中で屋外で横に並び、みなで夜空を見つめはじめた。静寂と共に目が慣れてくると、大きな漆黒の中に無数の点が現れた。

 流れ星が、僕たちの視界を横切った。瞬く間に。高揚が皆を包んだ。一体となって見る流れ星には、人をつなげる特別な力があると感じた。一度流れ星を見つけるとそのまま、「もう一度!もう一度見たい!」と言わんばかりに、僕たちは星空から目を離さなかった。その時初めてスクリーン以外の何かを、心を込めてじっと見つめたような気がした。

 ふと思った。もしビルの天井も電車の天井も何もかも透明なら、都市の人は皆、空を見上げるのだろうか?魔法の世界や平衡の世界に踊らされるのではなく、その一瞬を共有したい、そんな気持ちになるのだろうか?

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 公園から聞こえる子供の声で、眠りが覚めた。またこの街に、朝がやってきた。今日は今日の風が吹く。 こんな僕たちも、ただ静かな平衡の中にあるだけ。そう、ただそんな暮らしがあるだけだ。でもここには、そんな暮らしがある。